法教育は規範意識を植え付けるため???
法それ自体を疑うというのは、ルールには常に、明示的であればもちろん暗黙にも、例外がありうること、そして妥当性にも限界があるので、場合によっては法を否定することも視野に入れて考える必要があるということだ。
例えば、赤信号だから進んではならないというルール、これは自明のことのようだが、しかし緊急車両は安全を確認しつつ赤信号でも進んでもよい。これは明示的な例外だ。
それでは、信号のある横断歩道の途中で人が倒れたとしよう。ところが赤信号であるから、その横断歩道を進むことは許されないかというと、倒れた人に気づかない車に引かれるかもしれず、それを助けに行くことは法的に許される行動だ。そしてこのことは、法律には明示的には書かれていないのだ。実はかなり一般的な法に遡れば書いてあるとも言えるのだが。
そして、そもそも悪法もあるし、良法もその立法の前提が変われば悪法に変わる事も当然ある。
らい予防法というのは最初から悪法であったわけだが、同姓夫婦しか認めない民法750条もみんながそれを受け入れていた時代には良法でも現在別姓を選択したいという人たちが無視できない数で存在するようになって、悪法となっている。
このようにルールが妥当しないようになったのであれば、法とはいえ変えられるし、必要があれば法は作り出せるのである。
法教育は、こうした法の限界とか妥当しない可能性を教えるのであり、法は法であるがゆえに守られるべきとか、法に逆らうのはけしからんとか、頭からそのような教育をするものではない。
そして、法の作り方においては、ルールが必要な理由、ルールが妥当である理由、ルールにより不利益を被る人達がいるなら、その人たちへの配慮とか埋め合わせの要否、その他ルールを作るのに考えておく必要な要素を、法教育では考えることになる。
さらに肝心なことは、全くの価値相対主義に陥らないために、大事にすべき価値の提示と、それについても批判的な吟味をすることである。
例えば、人を殺してはならないという単純明快なルールも、なぜそうなのかを考えることは必要だ。そして死刑とか戦争とかによって人を殺すことが正当化される場合があることや、本当にそれは正当なのかとか、あるいは逆に正当防衛とか緊急避難といった例外的ルールにも思いを致すことが必要だ。
法教育は、このようにして規範自体を疑うことも厭わない営みであり、イジメをしてはいけないというルールについてもそれ自体を疑ってかかることから始めるであろう。規範意識にはなかなか到達しないかもしれない。
もちろん校則などは、法教育の中ではもっとも槍玉に挙げられやすい題材だ。ブラック校則も仕方ないとか、とにかく決まり事だから守れとか、杓子定規な対応を公平と履き違えてしまうような先生たちにこそ、法教育トレーニングは必要なことだが、きっとそういう先生たちには受け入れられないだろうなと思う。
だから、法教育はいじめ対策になるかと言われれば、なると思うのだが、それは「イジメ駄目絶対」みたいな規範に従うよう仕向けることによってではなく、むしろそれも含めて学校にたくさんあるルール、教室にいなければならないというのもその一つだが、そういうルールに従わなくてもいいかもしれないと思えるようになって、逃げられるようになることが、いじめ対策になるのだろうと思う。そして、逃げるのは被害者だけではない。加害者側の子どもたちもまた、自分たちを縛るカーストから逃げ出すことが可能となるのかもしれない。
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