Book:大学はどこまで「公平」であるべきか
今年読んだ11冊目は、橘木俊詔先生の大学はどこまで「公平」であるべきか-一発試験依存の罪 (中公新書ラクレ)
小樽商科大学の卒業生だし、フランスにもお詳しいということで親近感を勝手に持っているが、その大学論は経済学者らしい見解だ。
表題は、入学試験の問題のようであり、しかも新型コロナ蔓延の中での共通テストのあり方が問われているときに出てきた本でもあるので、それが主題かと、つまりもうあのような入試をやって公平さにがんじがらめになるのはやめようと、そういうことかと思ったが、そういうことではない。
ご主張は、もう文科省が推奨してやまない選択と集中のさらなる実施を求めるというものだし、さらにはコロナを契機とする9月入学移行にも、かねてからのご主張にマッチしているということで、実現しなかったことは残念だとされている。
アメリカは選択と集中で学術発展を達成しているから、日本も、ということなのだが、引用されている竹内淳先生のグラフは、私立大学協会のウェブページにも出てきている。
無断で引用させていただくと、このグラフから分かることは、橘木先生が言うように選択と集中がアメリカの方が進んでいるということよりも、日本の公的研究費がいかに一部の研究機関にしか配分されていないか、そしてその総額が日本とアメリカで如何に違うかということである。
こんなに貧弱な公的研究費の配分で、選択と集中をしてしまえば、伸びるかもしれない研究をほとんど見殺しにする結果が待っていることは火を見るよりも明らかではないか。
大学が研究中心と教育中心とに役割分担をしていく必要という、これまた悪名高き政策も、本当いうと、個人的にはその方が良いとは思っている。しかしながら、教育中心の大学と位置づけられても、その構成員たる研究者が教育にしか役立たないかというと、それはそうでもないのである。機会さえ与えられれば、世界に誇るべき研究業績を挙げられる可能性が、教育中心の大学に所属する研究者にもあるし、逆に研究中心の大学と位置づけられた大学の構成員がみんな潤沢に予算をもらっても成果を挙げられないということはありうる。後者はまあ仕方がないとしても、可能性を初めから潰してしまうのは、限られた人材数で勝負せざるを得ない日本にとっては全く贅沢すぎる話である。
ということで、大学の役割分担はまあ仕方がないとしても、それが研究者の分断につながることがないような仕組みが必要で、それは選択と集中を差し置いても行っていくべきことだ。
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