cinema:私は確信する #フランス映画
妻が失踪し、家庭内離婚状態であった夫が殺したのではないかと疑われたというこの事件、妻の愛人が熱心に夫による犯行を世間に触れ回っていて、夫が起訴されたことと、一審では無罪判決が出たにもかかわらず検察官控訴により控訴審にかかっていて、一審で陪審を務めた女性が刑事弁護で著名なパリの弁護士を招聘して被告人の弁護人とし、その助手として電話聴取記録から事件の真相を突き止めようとする中で、裁判が進んでいく。
その中で、最も心に響いたのは、被告人を支援する女性が真犯人の追及に突き進もうとするのに対して、弁護人がそれは弁護する自分の任務ではないし、真犯人追及にはやるあまりに、被告人を追及して追い詰めている刑事と同じ目になっているぞというシーンだ。
無罪推定と、疑わしきは罰せずという基本原理を信じていればこその言葉だ。
そして本音の部分では疑わしき者を罰しないのはオカシイと思ってしまっている社会では、これは言えないということになりそうだ。
日本の刑事司法や犯罪に対する社会的な反応との比較において注目できる点もいくつかある。
まず、フランスの刑事司法と日本の刑事司法との異同である。
もちろん近代国家の刑事裁判である以上、検察が起訴し、弁護士が弁護をする中、裁判所がこれに判決で有罪無罪と量刑を言い渡すという基本骨格は一緒だ。しかしそれ以上に、刑事裁判に被害者(代理人)が参加して証人尋問や賠償請求など重要な役割を果たす点(フランスでは私訴、私訴当事者という)や、重罪事件については裁判官だけでなく一般人が参加してプロとアマとが一緒に裁判をするという形態を取るところが同じである。ただし、日本で裁判員裁判というところがフランスでは陪審jury裁判といい、しかも控訴審でも陪審裁判が行われているところが違うし、私訴原告の役割も日本よりはずっと大きいのだが。
それよりも社会の反応の異同も大きい。
日本と同様にフランスでもマスメディアは犯人視された人に殺到するし、疑われれば世間的にも辛いのは洋の東西を問わない。しかし、その程度は大きく異る。映画の話ではあるが、被疑者は、殺人事件であっても在宅だし、仕事は続けているようだし、子どもたちと一緒に暮らし、子どもたちも普通に学校に行って成長している。父が母を殺したのではないかと疑われている状況で父の無実を信じることについての葛藤は描かれていたが、社会的な反応に家族が普通の暮らしを続けていける事自体、日本から見るととてもリアル感がない。
フランスの刑事司法にも、冤罪の温床となりうる警察留置とか、強圧的な警察権力の行使とか、職権主義とか、身柄拘束の長期化とか、そもそも刑事裁判の長期化とか、様々な問題があると言われていて、理想的な世界ではない。
にもかかわらず、やはり近代国家なのに「中世並み」と言われて言い返せないでキレるのがせいぜいの日本の刑事司法から見ると、青く見える芝生がたくさんありそうなのだ。
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