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2016/01/10

Book:言論抑圧

今年読んだ2冊めは言論抑圧 - 矢内原事件の構図 (中公新書)

戦前の話なので、今とは前提が異なることは確かだが、今もまた表現の自由と学問の自由が脅かされている状況を想起せざるを得ない。

東大経済学部の矢内原先生が、反戦的な言動を当時のマスコミである総合雑誌で展開し、また講演などでも理想を失った日本をひとまず葬って下さいと述べ、これらが直接のきっかけとなって辞職に追い込まれた事件を題材としているが、印象に残ったのは以下の諸点。

まず、愛国の観念について。日本の現実の行動(当時のことであるから戦争に突き進み、軍国主義を国是とする)をそのまま支持し協賛するという考え方に対して矢内原先生は国家としての理想を措定し、現実の日本がこの理想に反する行動を取れば批判することこそ、愛国であるという。

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こうした考え方は、私に言わせれば当然のことだ。ただし、理想それ自体に対する見解の相違は当然あるだろうが。ところが戦時下においては、四の五の言わずに国のいうことに従えということになってしまいがちであり、戦地で苦労している兵士を思えば飽食暖衣の大学教授が国の方針に批判を表明するなどもってのほかということになりがちである。
その結果、反日であるとか侮日であるとか、国の方針を批判的に論じること自体がそんな非難を浴びることになる。

もう今のネトウヨ的言辞が世の中にはびこっている状況と似すぎていて怖い。
日本経団連の何とかという人が、同じようなことを言っていたのを想起せざるを得ない。
榊原経団連会長「日本経済が未曽有の危機の時に政権の批評や批判するのは無責任」←やはり危機。
あるいは、日本はこんなにすごいんだという愛国ポルノに耽って自分を慰める連中が、日本の過去の悪事には目をつぶり、あまつさえ否定しようとして、歴史修正主義に走る現象もついでに思い出す。

次いで、表現の自由に対する抑圧の問題点。
筆者がまとめたところでは、戦前において反軍的・政府批判的な言動を公にする知的エリートは、次々発表の場を奪われ、沈黙せざるを得なくなったという。当時のことであるから、表現行為のメディアは紙媒体であり、紙は配給の対象。したがって反政府的な雑誌には紙をほとんど支給しないことで潰していくことが可能であり、廃刊に追い込まれたり、転向させられたりという経過をたどる。
メディアがそうであれば、メディアに言論を公開する筆者も、直接の批判ではなく公開の場を奪われるというやり方で発言を封じられる。
筆者は、言論人が表舞台から消えていくことにより、言論の抑圧と、その抑圧状態自体が見えなくなり、論じることすらできなくなることを描いている。

これもまた、ここ半年ばかりに立て続けに起こった反政府的ないし政府批判的な言動を辞さなかったジャーナリストが三人続けて降板というニュースを思い起こさせる。それぞれに毀誉褒貶はあろうとも。
現代においては、紙の配給といった事態には至っていないが、それと類似するのが、流通レベルでの言論抑圧であり、例えばJRを批判した週刊誌をキヨスクが取扱い拒否したとか、もちろんスポンサーの圧力で黙らされる芸能人とか、そうした問題に関係する。
インターネットがあるじゃないかとも言えるが、そのインターネットでは匿名性が長所にも短所にもなり、匿名で自由な言論を享受できる反面、匿名で他人を集団リンチ的に攻撃する連中が跋扈している。

最後に、学問の自由・大学の自治に関しても、当時の関係者に大学の自治に関わる問題であるとの認識が希薄であったこと、学長のリーダーシップに依存した学問の自由・大学の自治が以下に脆いものかを露わにしている。

その当否はともかく、現在の文科省主導の大学改革が教授会の換骨奪胎・学長リーダーシップの増強という路線であることを思い起こさせる。

というわけで、温故知新というか、改めて現在の私達の危機的な立ち位置を思い出させてくれる一冊であった。


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