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2015/11/07

BPOの政治介入批判

放送倫理・番組向上機構によるNHKのクロ現やらせ疑惑に対する調査報告書が、政治(家)の放送に対する圧力を批判しているとして、話題になっている。

BPO:政府の介入批判、異例の意見書…NHKやらせ問題

BPOの意見書は「記者が積極的に演技をさせて事実に見せかけたという意味での『やらせ』があったとは言い難い」とした。一方で「NHKのやらせの概念は視聴者の一般的な感覚とは距離があり、問題を矮小(わいしょう)化している。放送倫理の観点から自己検証すべきだった」と断じた。その上で、記者が裏付け取材をせずに男性をブローカーとして番組に登場させ、男性が登場した場面を隠し撮りに見せるなどして「報道番組で許容される演出の範囲を著しく逸脱した」ことから、重大な放送倫理違反があったと結論付けた。

 また、自民党国会議員らの6月の会合で「マスコミを懲らしめるには広告料収入をなくせばいい」との発言があったことなどを「圧力」の例として列挙。高市早苗総務相が4月末、NHKを厳重注意したことも問題視した。放送局側にも「干渉や圧力に対する毅然(きぜん)とした姿勢と矜持(きょうじ)を堅持できなければ、放送の自由も自律も侵食され、やがては失われる」とし、努力を促した。

この種の、自己規制機関というのは、しばしば国家権力主導で作られ、検閲禁止や表現の自由尊重といった憲法規範をかいくぐる形でメディアをコントロールする手先みたいに見られることがある。
しかし、今回の意見書は、自主規制が権力の介入に対する防波堤として設けられているのだということを、端的に示すものとなったと評価できる。

もちろんこれは単純化した整理であって、放送に関してはその資源の有限性と影響力の大きさとから、特に法律で公平(不偏不党)義務を課されており、これに総務省が折にふれて、公式・非公式両面で、コントロールをしてきたことは周知の事実だ。
放送に関する資源の有限性というのは電波の有限性を意味し、そんなものはケーブルテレビ出現とともに終わったといいたいところではあるが、またネット放送もあるので、広く放送という意味ではもはや無限の資源が開かれているのだが、いわゆるマスコミ、有限の放送資源の時代に築かれた資本と組織をもって豊かな表現力と普及した受像機、生活様式の上に機能しているマスメディアの場合は、なおその影響力は大きいし、偏向した内容が人々を動かす可能性はなお無視できない。

しかし他方で、公平とか中立とか不偏不党とか、あるいは逆に偏向という概念自体、ほとんど定義できないことも明白で、無理やり基準を作ろうとすると、様々な立場を等しく出演させるという無理難題に陥ることは、テレビの討論番組や選挙の公開討論番組などでしばしば露呈する。

ということで、放送法が公平を義務として課していることは理解できるが、法規範として機能するのは極めて難しい規範であり、いたずらに機械的な、内容を伴わない基準に陥るか、あるいは公平の名を借りた露骨な介入の口実にされるおそれのある条項だ。

ところで昨今は、憲法を守ろうというのが「中立ではない、公平でない、政治的だ」とされる驚嘆すべき時代になっている。憲法をどう解釈するかの議論が政治的であることは否定出来ないし、むしろ政治そのものといってもいい。また憲法改正が現実的な政治イシューとなっているので、なおさら、憲法を守る=改正しないということは政治的な言動である。しかしそれが中立とか公平を害するかどうかは別の問題であり、さらに公共施設の利用を拒む理由にされていいかどうかはさらに別の問題が入ってくる。

政治的言動と中立公平とは両立が困難な課題だが、では一切の政治的言動を中立公平でないとするかといえば、それはまた弊害の大きい話になる。民主主義は本来、多様性を認めるものであるので、多様な政治的言動を認めることが中立公平であり、また少数者の意見をより手厚く保護することが民主主義的な中立公平と言うことができる。
 そして、少数者の意見というのは、政治的な少数者をも意味するので、特に時の政権に対して異を唱える側の意見が、その表明の場を特に手厚く保護されなければならないということを意味する。逆に政治的多数を握る時の政権が自らの政策に迎合的な見解のみを優遇し、これに批判的な見解を封じようとすること、それこそが民主主義的ではない典型例ということになる。

なお、ではヘイトスピーチも尊重されるかといえば、もちろん内容によるが、民主主義を否定する言動や差別に当たる言動は、その限界を超えるものと解する余地はある。

公共施設の利用を許可するかどうかという際も、政治的言動に対して行政が中立を守らなければならないということから、政治的な活動の利用は出来ないとするルールにも一定の理解はできるのだが、その一方で、表現の自由や結社の自由が単に自己実現のため、幸福追求のために人権とされているのではなく、国民主権を支える基盤として人権となっていることを忘れてはならない。
公共施設の利用は、そのような国民主権の立場からすれば、個々人の政治的な言動の場としてどんどん使うべきという話になる。
税金で作った施設は、娯楽とかスポーツとかに使うのも必要なことだが、それ以上に、政治的な言動の場として使われるべきものである。

ここでもまた、それが民主主義に基づいていることから、多様な言動を認めること、そして特に少数者の言動をより手厚く保護すべきことが要請されるし、民主主義を否定する言動や差別などを表明する言動にまで自由を与える必要はないということも言える。
時の政権が、自らの意向に沿うような言動のみを優遇しようとし、それに公共団体が手を貸すということは、民主主義的には自殺行為でもあるのだ。

さてそういう見方で今回のBPOの報告書を見てみると、終わりにの部分に記された以下の部分は、極めて納得のいく考察が示されている。

 しばしば誤解されるところであるが、ここに言う「放送の不偏不党」「真実」や「自律」は、放送事業者や番組制作者に課せられた「義務」ではない。これらの原則を守るよう求められているのは、政府などの公権力である。放送は電波を使用し、電波の公平且つ能率的な利用を確保するためには政府による調整が避けられない。そのため、電波法は政府に放送免許付与権限や監督権限を与えているが、これらの権限は、ともすれば放送の内容に対する政府の干渉のために濫用されかねない。そこで、放送法第1条2号は、その時々の政府がその政治的な立場から放送に介入することを防ぐために「放送の不偏不党」を保障し、また、時の政府などが「真実」を曲げるよう圧力をかけるのを封じるために「真実」を保障し、さらに、政府などによる放送内容への規制や干渉を排除するための「自律」を保障しているのである。これは、放送法第1条2号が、これらの手段を「保障することによつて」、「放送による表現の自由を確保すること」という目的を達成するとしていることからも明らかである。

  「放送による表現の自由を確保する」ための「自律」が放送事業者に保障されているのであるから、放送法第4条第1項各号も、政府が放送内容について干渉する根拠となる法規範ではなく、あくまで放送事業者が自律的に番組内容を編集する際のあるべき基準、すなわち「倫理規範」なのである。逆に、これらの規定が番組内容を制限する法規範だとすると、それは表現内容を理由にする法規制であり、あまりにも広汎で漠然とした規定で表現の自由を制限するものとして、憲法第21条違反のそしりを免れないことになろう。放送法第5条もまた、放送局が自律的に番組基準を定め、これを自律的に遵守すべきことを明らかにしたものなのである。

 したがって、政府がこれらの放送法の規定に依拠して個別番組の内容に介入することは許されない。とりわけ、放送事業者自らが、放送内容の誤りを発見して、自主的にその原因を調査し、再発防止策を検討して、問題を是正しようとしているにもかかわらず、その自律的な行動の過程に行政指導という手段により政府が介入することは、放送法が保障する「自律」を侵害する行為そのものとも言えよう。

あわせて読みたい→BPOの政府介入批判は「異例」ではなく本来あるべき姿

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