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2015/02/07

ISILの画像コラビラをツイートしたら大学が注意してきた事例

なかなか興味深い事例である。

「SAIの落書きノート以下のそれ」というブログにまとめられている話だが、東大教務課による垢特定騒動についてによれば、「逆評定アンケート募集のお知らせ」というビラが掲示されていて、それには後藤さんと湯川さんが座らされてISILの覆面男が脅迫メッセージを述べるシーンの白黒写真が使われていたので、ブログ主が写真にとってツイートに使った。すると、そのビラを作ってはったサークルのみならず、ブログ主の許にも東大当局から電話があり、呼び出された事情を聞かれたというのである。
事情を聞かれた経緯は、東大による垢特定騒動の一応の終焉に詳しく記されている。

ブログ主の最大の不満は、匿名でやっているツイートを東大当局がなぜ特定できたかという点にあるようだが、これには私もビックリだ。垢特定にではなく、特定されたことを意外に思うことにだ。

東大生ともあろうものが、2ちゃんねるの鬼女板とか、そんな特定の人たちだけでなく、炎上騒ぎの度に繰り返される匿名ユーザー特定騒動を知らんのかと。有名ドコロでは、ホテルでバイトしてた大学生が有名人のお忍びデートをつぶやいたことで炎上して、一晩でリアルな個人情報が学校関係から家族関係まで暴かれてしまったのを知らんのか。

ただ、大学当局としてもそれをやるとか、センター試験の得点をつぶやいていたことで、それが大学当局の捜索に役立ったというのは、さすがだと思うとともに、なんとなく目的外使用ではないのかなぁという気もするのだが、まあいいか。

ということで、この騒動は中高生向けインターネットリテラシーの教材として今後使わせてもらうことにして、興味深いのは不謹慎なビラをツイートしてネット拡散する行為に対する大学当局の反応とブログ主の言い分である。

ブログ主がツイートしたことに対する大学当局の言いたいことは、ブログ主のまとめによれば、この写真をツイートしたことにより拡散し、それが遺族の心情を傷つけるなどの二次的影響をもたらす、だから控えるべきだったんじゃないのか、ということである。
途中、ちょっと分かりにくいところもあるが、拡散させたこと自体を問題しないと言いながら、拡散させたことによる二次被害が生じることを問題として、拡散させない方が良かったと思わなかったかというのである。

まず、大学当局としては、学生の違法とはいえない行動について、大学当局自身の価値観をもって介入することがどこまで許されるのかという問題がある。
アカデミックな立場からの介入は、もちろん本来の仕事なので当然するし、しなければならない。
しかし今回のケースは教育内容とは一応別のところでなされた行動である。
例えば公認団体の活動という場合なら公認した大学にも一定の関わりがあるのだが、そういう結びつきもない一般学生の行動である。

情報ネットワーク利用規則は、大学自身のネットワークの安全だけでなく、利用者がインターネットを利用する際のネチケットにも及ぶ行為を規律対象としている。それは、私の目から見ても大学の介入すべき分を超えていると思うことがしばしばあるが、そういう意見がルール作りの場に受け入れられることは少ない。
その学生の安全を図る目的でもないのに、どうして大学が介入出来るのかという問題点を、ネットワーク管理者も当然考えるべきであろう。
しかし今回のケースは、それよりさらに遠い。

およそ、意味のある情報というものは、光があれば影もある。インパクトが強ければ、負の影響も大きい。人の心を打つ、感動を呼び起こす表現は、それが嫌いな人を傷つけることもありうる。
そのような性質が情報にある中で、どこかに許されるかどうかの線を引かざるをえないということである。

そしてその線の引き方は、その情報や表現に対する好悪の感情とは別のところにあることを忘れてはならない。
話は飛ぶが、シャルリー・エブドの表現についても、フランスでも、日本でも、それに嫌悪感を抱く人は多く存在していた。買ったこともない人が大多数で、ローマ法王が「俺だってぶっ飛ばす」と言ったのもむべなるかな、彼らが笑いものにしたのはモハンマドに限らずローマ・カトリックは格好の題材だった。
しかし、それに対する暴力での制裁はもちろん、権力による抑圧も許されない。ということは、彼らの表現は許されるべき領域にあるということである。
かくして、突然シャルリー・エブドの友人が増えてJe suis Charlieというスローガンを語りだし、みんながデモに参加した。当のシャルリー・エブドのイラストレーターたちが嫌悪感を表明していたが、それは彼らが勘違いして自惚れたというものであって、別に多くの人達がシャルリー・エブドの表現に共鳴したわけではない。嫌いな表現でも、それが存在しうる自由を守ろうという意思表明なのである。

シャルリー・エブドの例は表現者の表現の自由だが、今回のツイートでの拡散は、表現の流通の問題である。
従って同じレベルの表現の自由が問題となるわけではなく、より抑圧的な扱いを受ける可能性はある。しかし、表現行為が意味を持つのは、それが人の目に触れるからであり、つまりは流通できることが不可欠の要素となる。表現行為をした人を処罰しなくても発禁処分を課せば、やはり表現の自由そのものが抑圧されるというのは当然のことだ。

かくして、拡散する行為を制度的に禁圧したり、暴力で抑圧することは、拡散されるべき表現に対する抑圧行為と同じなのだ。

ただ、ここでも好悪の感情はありうるし、批判は自由だ。表現に対しては批判の自由が対立し、表現の自由はそうした批判される可能性を織り込んでの自由である。特定の表現を流通させた者も、やはりその表現内容に対する批判の一部を引き受ける可能性を甘受しなければならないはずだ。
もっとも表現者と表現の流通者とが全く等価に批判を受けるのかというと、そこにはためらいがあって、一般論にはまだまとめられない。ここは留保しておきたい。

ということで、思いの向くまま長々と書いてしまったが、東大当局とブログ主との今回の関係について言うならば、以下のようになる。

大学当局が、教育者として学生に接するなかで、ブログ主のツイートに評価を下し、指導をするというのは、権力的な行為であって、表現の(流通の)自由を侵害するものとして許されないというべきだ。
ただし、大学当局も社会の一員として、社会的接触のある相手であるブログ主に対して、対等な立場で批判をしたというのであれば、それは大学にとっての自由でもある。表現者そのものではなくても表現を流通させた者として、ブログ主は批判を受けることを甘受しなければならない。でもそれってツイッターでの反響でネガティブなものがあるのと大差はないのだ。

以上。

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