ISIL 角幡唯介:自己責任をめぐって
角幡唯介さんの「イスラム国」事件における自己責任論と、個人を侵食する全体主義についてという記事を読んでとても共感したので、こちらでもご紹介。
ついでに角幡さんの著書もキンドルストアで買ってしまった。
上記の記事で共感を覚えるのは、以下の部分。
要するに日本人というのはその心性として、個人が自ら判断して行動を起こすこと、それ自体に対して、徹底して否定的な態度を取る傾向があるような気がするのだ。
公というのは常に個人の自由と権利を侵食しようとする性向がある。そのため個人は常に意識的に緊張感を持ってこれと対峙しなければならない。個人より公を上のものと考える風潮は近年、いよいよ強まっており、今回の「イスラム国」事件における自己責任論のあり方と、安倍政権に対する批判の弱さはその端的な表れであるようにも思える。今のように、個人が自ら進んで自己の自由や権利を放擲し、公に対して追従的になろうとするならば、日本の社会と政治体制は必然的に全体主義的な方向に進まざるをえないだろう。
ついこの間、私も「Pays-Bas:抗議活動はご自由にという判決」で以下のように書いたばかりだが、似たような思いは広がっているのであろう。
日本社会は、国家や政府の活動に対して私人が我慢を強いられることには物凄く肯定的なのに対して、私人の公益的な活動に対して他の私人の我慢を要求することには物凄く否定的という傾向があるようだが、そのことを反省する契機に多少なりともなれば良いと思うのだ。
ただ一つ違うなと思うのは、角幡さんは「近年、いよいよ強まっており」と書かれているが、私はこれは以前の方がより強かったし、方向としては個の尊重の方に向かっていると思うのだ。
たとえば、国に対して異議を唱える行政訴訟は、昔は村八分覚悟の、いわば禁じられた直訴のようなイメージだったろうし、田舎の心性が残っているところでは「国と争っている家だ・会社だ」という後ろ指を差されるのは当たり前だったが、今はそうではなくなりつつあるように思う。
国の側も、昔は護送船団方式が各所で見られて当然だったところ、そうしたやり方はもはや通用しない。といっても時々出てくるのだが。
民主党のネガティブなイメージで風前の灯火かもしれないが、新しい公共という考え方、あるいは既に自民党政権時代からのことだがNPOによる民間主導の公益活動も盛んになり、たとえその多くは国や自治体が糸を引いているものであったとしても、そのような紐付きでない非営利活動を行う人々は確実に増えている。
ということで、昔よりは滅私奉公型の発想というのは緩まる方向にあると思うのだが、正直いって、まだまだだなぁという意味では角幡さんの言うとおり。
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