jury:裁判員制度、終わりの始まりか
2009年5月に施行された裁判員制度の見直しを検討していた法制審議会(法相の諮問機関)の部会は26日、裁判員の確保が難しい長期間の裁判(超長期裁判)を裁判官だけで審理できるようにする規定を盛り込んだ要綱案を了承した。「超長期」の具体的期間は「基準を示すのは難しい」として明記しなかった。法務省は法制審の答申を待ち、今秋の臨時国会に裁判員法改正案を提出する。
裁判の途中で裁判員が不足した場合も同様に対象外とできるとのことだ。
既に、裁判員として招集された場合に、無断欠席しても罰則が適用されることはない。
出頭率は目を覆わんばかりの低さ。
裁判員制度は、英米の陪審をモデルとして無作為に選ばれた市民に義務として判断役を委ねるというものであったが、「義務」という色彩は限りなく後退している。もはや建前でしかない。
これでは裁判員の確保が難しくなるはずである。
そして今回の改正方向は、裁判員対象事件でも便宜的に裁判員抜きとすることを認めるもので、この例外を認めれば、例外が認められる範囲はどんどん広がるであろう。
というのも、裁判員による裁判の方が裁判官だけによる裁判よりも良い、良質だという確信というか信念というかが欠けているように思うのだ。
重大な事件に限って裁判員裁判を行うというのも、重大な事件で刑も重いから、より良い手続である裁判員裁判をという発想ではなく、単に裁判員確保の都合から対象事件を絞るために重大事件に限るという発想に変わってきたように思われる。死刑対象事件を裁判員裁判から外そうというのも同様で、裁判員に心理的負担をかけるからというのがその理由だが、裁判員の方が良い判断ができるという確信があれば、特に死刑事件などは裁判員裁判を必要とするはずである。
要するに裁判員裁判を実施することで刑事手続がより良質なものとなるという信念、これがないから便宜論に道を譲るのである。
そして裁判員裁判の方が裁判官裁判より良いという確信がなければ、裁判員裁判は誰得ということになる。
なぜ、一般市民に負担をかけ、仕事も休ませ、その分のコストも国庫で負担し、裁判員への教示や各種の説明という手続的負担を裁判所が引き受け、さらに弁護人にとっても検察官にとっても「分かりやすさ」を追求しなければならないという負担を引き受け、挙句に反対派にはさんざん批判されるのに、裁判員裁判をしなければならないのか、さっぱり分からなくなるのである。
今回の改正方向で裁判員対象事件に裁判員抜きの余地を認め、その理由が裁判員確保の困難にあるのだとすると、要するに裁判員の都合がつかなければ強制してまでやることはないという態度になったのであり、結局、誰得の裁判員制度は、やがて維持できなくなると思う。
結局日本人は、お上の、つまり裁判官の裁判が一番偉いと思っていて、プロの法律家の間での裁判であるから口頭主義よりは書面中心主義で効率的に処罰をする制度が最善と考えているのかもしれない。
同僚の裁判よりも天の裁きの方を信頼しているのかもしれない。
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