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2013/03/02

Book:新渡戸稲造

札幌農学校の第二期生にして、同校教授でもあった新渡戸稲造は、5000円札の肖像に採用されるほどの人物だが、実のところよく知らなかった。そこで、本屋で見かけた時に買って読んだのが、この本だ。



色々と興味深い経歴や考え方が盛りだくさんに入っており、これを要約するのはほとんど不可能だが、いくつか印象に残ったところを書き留めておこう。

新渡戸稲造は、東京外国語学校(東大予備門)に入った後、中退して札幌農学校の第二期生となって札幌に渡った。卒業後は札幌農学校予科教授を兼務していながら、東大文学部に選科生として入学。ところがその教育レベルの低さに呆れ、退学してアメリカに渡った。
アメリカの大学に在学中、札幌農学校の助教に採用され、その身分でドイツに留学し、アメリカ人女性と結婚して帰国し、札幌農学校教授となった。

この間、遠友夜学校を自ら主宰し、学校に通えない人々の私塾を開いている。

しかし、札幌農学校の生活は新渡戸稲造の体に合わず、神経衰弱で札幌農学校を辞することになる。

その後は鎌倉等に転地療養し、さらにカリフォルニアに転地療養し、その地で有名な『武士道』を著した。

そして、児玉源太郎と後藤新平に引っ張られて台湾総督府勤務となり、その勤務終了後は京都、東京の各帝国大学教授を歴任し、一高校長を務めた。リベラルアーツ大好きの新渡戸稲造にとっては天職だったかもしれない。
この時の教え子に、田中耕太郎とか、鶴見祐輔、矢内原忠雄などがいる。

一高校長を辞した後は東京女子大初代学長を務めたが、これはほとんど留守学長で、その翌年の大正7年には国際連盟の事務次長に就任している。
このとか、フィンランドとスウェーデンとの間にあったオーランドの領有権問題についての裁定を下し、武力によらない解決を実現している。

一昨年、このオーランドに行ったが、特に新渡戸稲造の名前は見かけなかった。→Alandに来た

連盟事務次長を辞した後は、関係の悪化していたアメリカに、日本への理解を求める講演旅行を繰り返し、彼の地で亡くなったのである。

こうして書くと、働き詰めの人生だったように思われる。

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