net:世界をあるがままに見ると劣化も見える
このエントリは、磯崎さんのisologue:世界をあるがままに見るということと内田さんのネット上の発言の劣化についてというブログ記事の感想だ。
内田さんの劣化エントリは、入り組んでいて誤解している可能性もあるが、大要次のような論旨だ。
マスメディアが言論を支配していた時代には、情報独占の代償として情報への平等なアクセスが可能だった。しかしサブカルチャー系の分離などを経て、情報へのアクセスが分化し、マスメディアのマップ機能が減退した現在、自分が接する情報に客観的な評価が出来ず、過大評価してしまう。そこでは「信頼性の高い第三者」による再評価が施されないし、信頼もされない。 筆者のいう第三者は、権威ある誰かではなく、言論の自由な場の審判力であり、集合知とも言いかえることができる。ところが自分が接する情報に客観的な評価が出来ず過大評価してしまう人々は、そうした集合知の審判力も信認していないので、挙証の手間暇や、「情理」を尽くした説得を欠いた情報発信を行う。これは聞き手がいてもいなくても関係ないという態度であり、言論の自由の場に対する敬意を欠いた、それを踏みにじる行為であり、呪いである。そんな情報発信の自由はない。 現在、質のよい情報、すなわち価値中立的な視点から精査する自己点検システムを含む情報とそれを含まない情報とに分化しており、その質のよい情報にアクセスできる階層と質の悪い情報にしかアクセス出来ない階層とに分化している。 この階層分化は不可逆的に進行しているが、なんとかしてその進行を止めたいというのが筆者の願いだ。
これに対して磯崎さんのあるがままエントリは、比較的簡潔で、以下のような内容だ。
ネット上の発言の劣化は、「劣化」ではなくツイッターをはじめとするソーシャルメディアなどで、「世界のあるがままの実態」が見えて来ているということではないかといい、つまり前からそんな情報の階層化や情報自体の分化はあったのだけれども、それが見える化したというにすぎないと言われる。 その上で、書籍の自炊によるデジタライズで、今まで見えなかった情報が検索できるようになり、いろんな人が書いた何百の本棚分もの知や情報が、中身まで瞬時に透視できる世界が到来したという。「発言の劣化」と「膨大な知へのアクセス」とは、同じ現象の表裏であり、つまり「世界のあるがままの姿」が徐々に見えてきているという現象であり、このいわゆる「見える化」が人類や社会にどのような影響を与えるか注目どころだと締めている。
以上は私なりのまとめで、原文にはない語も用いたので、趣旨が異なると思われるところもあるかもしれないが、大要こんな内容だ。
内田さんの「劣化」という問題提起は、おそらく公共圏と私的空間の混淆に対する警戒と軌を一にするものだろう。
これに対するオーソドックスな反論は、公共圏における言論が内田さんのいわゆる「質の良い情報」に限られるものではなく、むしろ名も無き大衆の個人的経験と感情とに忠実な意見が何らかの形で公共圏の議論に影響を与えてきたのではないかという指摘である。それが明確化されるには、マスメディアのマッピングが必要だったかもしれないが、そのマスメディアの構成員とても経験と感情は名も無き大衆と共通しているのである。
名も無き大衆による、付和雷同的にせよ形成している世論のようなものも、その感知方法や取りまとめ方法、あるいはマスメディアによる選別と情報のバイアスに強く影響を受けるとはいえ、内田さんのいう「質の悪い情報」の塊ではあるが、公共圏の議論に存在感を示さざるをえない。
このあたりは、内田さんも「情報を受信する人々の判断力は(個別的にはでこぼこがあるけれど)集合的には叡智的に機能するはずだという期待」を支持するので、名も無き大衆の意見が反応として現れる場合の叡智的機能を信じており、従って名も無き大衆の意見が直ちに「質の悪い情報」と位置づけている点に異論があるかもしれない。しかし個人的な経験と感情、そして個々人が常識と自ら位置づけている知見とをソースとして形成される意見は、「根拠を示さない断定や、非論理的な推論や、内輪の隠語の濫用や、呪詛や罵倒」になりやすい。それが叡智となるには、おそらく異なる意見の相互検証というプロセスを経ることが必要であり、そうしたプロセスは必然的に「挙証の手間暇や、情理を尽くした説得」を伴うから、負担である。なんらかのメリットがなければ、そのような負担を引き受けることはないだろうから、多くの場合は内田さんの言う「質の悪い情報」となるべきレベルのままで大衆の意見が形成されている。これは内田さんも認めるとおり、その意見の当否とは別である。
さて、そのような「質の悪い情報」の存在は、以前からあったものがソーシャルメディアにより見える様になっただけとの磯崎さんの指摘だが、既に時間と力が尽きたので結論だけ。全く仰るとおりだと思う。
問題は、ソーシャルメディアの役割が見える化に留まるかどうかという、その先だ。
磯崎さんは蔵書の電子化で人類や社会がどのように変わるかを注目されているが、そのひとつの経験がデータベースの普及によりもたらされている。たとえばシェークスピア研究は、その全文データベースが研究者に利用可能となったことで大きく変わったと言われているし、法律学でもその傾向はある。
しかしソーシャルメディアの普及による変化は、その双方向多方向的なコミュニケーション機能にあるのであって、人類社会が変わるとすれば、それは電子化の外側における相互作用のレベルで起こるのだろう。コミュニケーション機能を介して、磯崎さんが注目しているであろうロングテール部分の知のクローズアップも進むのではないか。(磯崎さんはロングテールという言葉を使っていないが、そういうことだろうと思う。)
それが日本社会をどう変えているか、さらに考えてみたい。
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