China:ネット人権宣言
懐かしい響きさえするが、中国で人権活動家たちがネット人権宣言というのを発表し、早速当局に潰されたそうである。
サーチナ:ネットの向こうの中国(19)「ネット人権宣言」が出現
1.ネットの自由は市民の言論の自由の一部であり、人類の基本的人権かつ最も素晴らしい価値の一つであり、追求し保護する価値がある。2.憲法の原則や法律に則ったネット上での発言、文字や音声、図画、映像などを使った意見の発表は、保護され、奨励しなければならない。
3.発表する権利はネット市民の最も基本的な権利であり、具体的にはブログ、動画サイト、論壇などで実現される。発表する権利は法律の範囲を超えた審査や干渉を受けてはならない。
4.編集権は尊重されるべきであり、法律の範囲を超えた他の権力による干渉を受けてはならない。
5.取材、報道の権利はネット市民が持つ権利の一つであり、憲法の言論の自由の原則により守られねばならない。(ただし)市民がこの権利を行使する際には、真実を伝えることを重視し、歪曲、ねつ造、悪意ある誹謗(ひぼう)などをしてはならない。
6.評論や意見交換する権利はネット市民が持つべき権利の一つであり、これには質問、監督する権利や、批判する権利などが含まれる。
7.匿名で発表する権利は言論の自由の一部であり、匿名は作者がより便利に意見を発表するためのものだ。匿名の作者が憲法や法律に則って意見を発表するなら、その合法的権利は尊重されねばならない。
8.ネットでの情報検索は市民の表現する権利や知る権利、監督する権利の一部である。合法的なネット上の情報は隠ぺいされてはならない。公共領域での個人情報を検索する権利は尊重、保護されるべきだ。
9.ネット上のプライバシーは尊重、保護されるべきであり、ネット市民の真の身分や個人情報は、公正で透明な司法手続きを通じて、必要性が証明された場合を除き、ネット上で公開してはならない。
10.憲法や法律に従ったネット上の情報が自由に流通する権利は、尊重かつ保護されるべきだ。言論の自由の原則に反するウェブサイトの審査、隠ぺい、封鎖は世論によって非難されるべきであり、司法手続きにより言論の自由の正義が追求されねばならない。
このニュースを聞いて真っ先に思い出すべきは、ジョン・ペリー・バーローのサイバースペース独立宣言だ。
これはアメリカの通信品位法におけるわいせつ表現規制に反対して出されたもので、ウェブページの背景を黒くする運動とも結びつき、ついには連邦最高裁が違憲判決を下すまでに至った。
(この独立宣言と、その後の10年余りの経過を論じたものとして、高野泰「『サイバースペース独立宣言』10周年+α---アメリカ起源のネット文化とその行方」という論文pdfがある。)
その当時、マスメディアは、こうした動きを全く黙殺というか視野に入ってさえいなかった。
その後、ネット社会は現実社会と対比して自由かどうかという問題設定の下では、むしろ逆に不自由である、コードによる支配が加わるというレッシグの議論もあり、またネットは匿名社会で無法地帯だという単純素朴な観念も、実は匿名というよりも非匿名の世界ではないかと反論され、「独立宣言」は夢想に過ぎないと見られてきた。
こうした文脈の中では、上記のインターネット人権宣言は、単なる夢物語というよりも、不自由で監視の行き届いた社会となってしまうが故の抵抗として意義があるものである。
これが中国政府により直ちに消されるというのは実に象徴的である。
しかしネット社会と現実社会の対立図式では、事態があまりに単純化されすぎてしまう。実際には、ネットは現実社会に生きる人々が利用するものであって、現実社会の在り方がネットというツールにより徐々に変容していく、そんなダイナミズムは無視できない。
例えば今回の政権交代で浮上した政府の記者会見と記者クラブの密接なつながりに異議を唱えるネットメディアの存在である。
既存マスコミによる閉鎖的な記者クラブとその主催で部外者を閉め出す記者会見という構造に対して、ネットメディアが参入を求めたというだけであれば、せいぜいマスコミの定義が少し広がるというだけのことなのだが、そのネットメディアが記者会見をネット中継したり、あるいは政府側が記者会見をネットでダイレクトに流したりすれば、その場に参加するメディア(マスかネットかと問わない)の役割は大きく変わっていく。単に発表を取捨選択して伝えるフィルター付き土管ではなく、事実情報に付加価値をつけて伝えるという役割にならざるを得ない。
従来のマスコミがそうした機能を果たしてこなかったとはいわないが、付加価値のほとんどない情報伝達係という側面も確かにあった。例えば警察発表をただ垂れ流すだけといわれる発表ジャーナリズムとか、せいぜいそれに被害者感情を付加して扇情的な記事に仕上げるスキャンダラスな報道姿勢などである。
情報がダイレクトに民衆に伝わるのであれば、今後はより質の高い、付加価値のたっぷりついた報道が求められる。それこそが、大会社によって運営されるマスメディアの果たすべき役割であろう。
要するに、ネットにより情報がダイレクトに流れ出すことで、既存の秩序が変容していくことがありうるのだ。
この変化は、学問の世界にも、大学教育の世界にも、ひたひたと押し寄せて来ることであろう。
取りあえずは、既存の著作権体制に殴り込みをかけたようなグーグルは、目立たないが学問の世界にも手を伸ばしており、世界の論文がサーチできて、ある程度は中身も読めるということになっている。
あるいはYouTubeのEduでは世界の大学授業が映像で見られる。この種のオープン化がどこまで進むのか、まだまだ予断は許さないが、いずれは手の届くところにある情報が飛躍的に豊富化するとともに、情報発信面でも水平化が進むことだろう。
そのような世界に至ったとき、情報を囲い込んだり、フィルターをかけたりして制限する行動は、草でない社会に対して圧倒的なハンデを背負い込むことになる。
計画経済でみんな幸せになろうという夢が耐えられなかったのと同様に、情報統制で安心安全をという夢もまた、いずれは持ちこたえられないだろうと思う。
上記の「人権宣言」みたいなものに目くじらを立てなければならない国家というものが、既に脆弱性を露呈していると思うのだ。
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