theorie juridique:法的世界と人間像
法的世界と人間というテーマの研究は、色々なところでなされていると思うが、民事訴訟でも一つの議論になっている。
民事訴訟法制度の予定する人間像と現実の人間とのずれ。既判力や当事者適格、処分権主義と弁論主義などが前提とする人間像は、強い人間像だが、実際の人々はそうではない。
実際の人々にとって、裁判所で自己主張することは敷居が高いし、法的にはそれが当然と思っていても、必ずしも法的手段を尽くすことが必要かつ当然とみんなが思っているわけではない。
従前の法理論には乗ってこない大衆が、しかし法的に関係のない存在かというと、裁判で示された個別的な法律関係が多くの人々に共有されることで法規範としての地位を獲得するという側面、あるいは誰かの提訴による法的解決が、訴訟外の人々の生活を規律するという側面などに注目すれば、裁判当事者にならない、さりとて法的利益・権利を放棄するわけでもない、多数の人々の存在を無視できなくなってくるのである。
また、そういった人々が、マスとしての声を上げることのできるネットワーク社会では、ますますである。
もちろん、マスとしての声がネガティブにもポジティブにも働くので、一筋縄ではいかないのだが。
ある集まりに参加して抱いた感想である。
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