コトバだけではないのが民法の難しさだが、その理論にもすこぶる難しさがある。
例えば、ある物の売買契約を締結したら、その物は誰の物になるだろうか?
普通は、売買契約が成立したのだから、買い主が持ち主になると考える。売り主から買い主に、その物の所有権が移るのは至極当然だ。民法にもそうやって書いてある。
ところが、昔の偉い先生はそうは考えなかった。売買契約が成立しただけではその物の所有権が移らず、所有権を移す行為をしないとならないというのだ。
感覚的には、例えば大根を八百屋さんで買うときはこんな感じになる。
「この大根下さい。」
「あいよ」と新聞紙に包んでくれる。
「ほい、150円」といって、150円と引換に手渡す。
契約は、「この大根下さい。」「あいよ。」で成立するが、物理的にお客の手に大根が渡るのは、金を払って引換に渡してもらうときだ。そうだとすると、所有権が移るのもその引渡のときだと考えることもできる。
そしてこれをドイツ風に理論を構築して、売買契約という債権行為だけでは互いに所有権を移したり代金を支払ったりする義務が発生するだけで、実際に所有権を移転させるという(物権的)効果を生じさせる「物権行為」が必要だといったりする。
これと同じような理論構成が、契約の解除の効果をめぐってもでてくる。売買契約を解除したら、買い主にある所有権が当然に売り主に戻るのか、それとも解除によって所有権を戻せという請求権が売り主に生じるだけなのか?
こんなことはどうでもいいと思われるかもしれないが、取引行為の基本的な仕組みに関わることだけに、正確な理解が欠かせない問題でもある。
具体例としてはオンラインオークションによる落札は契約成立を意味するのかどうか、という問題がある。
素人目には、オークションで落札したのだから、もうその売買契約は成立したと考える。
しかし、少なくとも最大手のヤフーはそのように考えていないし、現にオークションのセラーもビッダーも落札後に価格交渉を始めたりする。そして、それはそれで現実の当事者の公平な関係に合致していたりするのだ。
かくして民法は難しい。単にコトバだけ手直ししたり仮名をカタカナから平仮名に換えたり漢字を優しくしたりしたぐらいでは簡単で素人でも理解できるようにはならない。それが私人間の取引の公平さを実現するためにとられている解釈だとすれば、むやみに単純化することは有害とさえ、いえるのだ。
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