今日もWinny開発者の逮捕の話である。
同僚の法律教員の間でも、特にサイバー系というわけではなくとも、結構知られているし、疑問を持っている教員が多いようだ。
ところで、従犯(幇助)の成立要件解釈をめぐる議論は専門家に任せるとして、素人目には今回のケースを幇助として摘発するのはとても危なく感じる。その処罰の広がりがどこまでか、全く歯止めがなくなりそうに思える。
もともと幇助の形態は無限定的で、精神的に援助しただけでも物理的に手助けしても、はたまた道具を与えてもよいし、しかも幇助の行為時に正犯が特定されている必要もないとなると、もうどこまで広がるのかさっぱり分からない。
最近のニュースで、妻を殺したい夫に妻殺しを励ました女性が殺人幇助で捕まったという話があるが、一般的に配偶者を殺すことを推奨する本を書いたら、それを読んだ人が配偶者殺しに及んだときに幇助となるのだろうか? 推奨するのではなく、完全犯罪となる結末でミステリーを書いたらどうか? あるいは完全犯罪マニュアルみたいな本はどうか? 古今東西の配偶者殺しの実録や民俗学的ノンフィクションはどうか?
物質的な援助でも、評判の悪い包丁の喩えからコンピュータ、ネットワーク技術まで、不特定多数の犯罪行為を容易ならしめる技術開発というのは数限りなくある。そうした広がりは何をもって抑制されるのか、よく分からなくなってしまうのだ。
罪刑法定主義をとる刑法は、法律で禁止された行為を特定して、その外に自由な活動の領域を認める機能があると、20年以上前にならった記憶がある。ところが幇助ということで、誰かの犯罪行為に役立つかもしれない行為を無限定に処罰対象としたら、自由な活動領域は著しく狭まってしまうだろう。
そして、しばしば「これはフィクション」だとか「これは犯罪行為を推奨するものではない」とか、言い訳がましいお札を付けているものが見受けられるが、こういったお札をつける付けないで犯罪となるかどうかが決まるというのもおかしな話である。
知的財産の場合、ソフトウェアやネットワーク技術それ自体が知的財産であり、様々な開発努力によりよいものが淘汰されて進歩に寄与してきた。ネットワーク一つとってみても、某三流国が頑張って普及させようとしたネットワークはあえなく失敗に終わり、TCP/IPネットワークに取って代わられた。そのTCP/IPはアメリカ政府の予算から出発したものの、かなりアングラな部分も含めて多くの研究者・技術者の開発努力の中から、淘汰されて出来てきたものだ。
その結果が電子商取引の拡大であり、産業育成・景気回復、国際競争力のアップというわけだが、ネットワーク技術はなお進化発展を続けており、その核の一つにはファイル共有システムのさらなる発展が挙げられる。やがては知的財産のあり方が変わっていくとともに、新しいビジネスモデルが次々生まれていくだろう。それは遠い先の話ではなく、少なくともアップルのミュージックストアのようなレベルでは現在進行形で始まっているのである。
ところが、既存の知的財産権利者の一部が目先の利益にしがみついて、新しい技術開発のある部分を躍起になって押さえつけようとしている。そして刑事罰を持ち出して、権利保護を追及するのだが、そのチリングエフェクトが広がれば、やがてコンテンツ産業にも不利益が跳ね返ってくるだろう。
刑法の基本に立ち返って、自由な活動領域を明確に示すためにも、幇助と評価される範囲は限定的に解すべきである。